阪神優勝の立役者は誰?岡田監督の功績に衝撃の声が相次ぐ!
阪神優勝の立役者が果たした“重大な功績”とは「岡田監督は足を向け ... - 日刊SPA! 阪神優勝の立役者が果たした“重大な功績”とは「岡田監督は足を向け ... 日刊SPA! (出典:日刊SPA!) |
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阪神優勝の立役者に対する賞賛の声が多く、岡田監督の指導力と采配が際立っていたと感じます。彼の指導のもと、チームは団結力を高め、一丸となって戦っていたように思います。
9月14日に甲子園で行われた巨人戦で4対3で勝利し、見事に18年ぶり10度目のセ・リーグ制覇を果たした阪神タイガース。チームを率いる岡田彰布監督の手腕もさることながら、見逃せない点がある。9月16日に『阪神タイガースぶっちゃけ話 岡田阪神激闘篇』(清談社Publico)を上梓した野球解説者の江本孟紀氏は、「平田勝男ヘッドコーチの存在が大きかった」と語っている。
「岡田監督の隣にいる平田ヘッドの姿を見て、『この2人は連携がとれているのか?』と見る人もいたかもしれませんが、私はまったく心配していませんでした」と断言。その理由についてこう話した。
「平田ヘッドは阪神の二軍監督時代、熱血漢で知られていましたが、選手間では人当たりが柔らかく、信頼されていましたし、いったんユニフォームを脱げば気のいいおっちゃんそのものでした。
母校である明治大学の先輩である星野さんがかつて阪神の監督を務めていたときには、マネージャーとして裏方の役割に徹していましたし、2004年から岡田が監督になったときには、今回同様ヘッドコーチとして重要な役割を果たしていた。
岡田監督とは大学は違えども同じ東京六大学野球で神宮球場でプレーしてきた間柄であるし、もとから人間関係はしっかりしていたんです」(江本氏、以下同じ)
◆彗星のように現れた好投手村上
さらに平田ヘッドが果たしてくれた重大な功績があるという。それは村上頌樹、才木浩人、大竹耕太郎という3人の投手を見出したことである。
村上は高校時代の2016年春のセンバツで、智弁学園で優勝投手に輝いているうえ、東都六大学の東洋大学でも日本代表に選ばれるなどの実績を残して20年ドラフト5位で阪神に入団。21年から2年間の一軍での登板はわずか2試合だけだったが、22年は二軍で最優秀防御率、最高勝率の投手2冠を獲得、奪三振74はウエスタンリーグで最多だった。
このとき二軍監督だったのが平田だった。一軍ではまだ実績を残していなかったものの、「一軍で通用する力がある」と去年の時点ですでに評価していた。
その結果、23年4月12日の東京ドームでの巨人戦で7回まで無安打無四球の完全試合の好投をして、岡田監督以下一軍首脳陣から最大級の評価を得た。開幕からの連続無失点31イニングというのは、セ・リーグ最多記録となり、オールスターにも選出されるまでにいたった。
「おそらくセ・リーグの他の5球団は、ローテーションの中心になるであろう、青柳晃洋、西勇輝の2人を徹底マークしていたと思うんです。ところが、この2人が思うようなシーズンを送れなかった。そこに来ての村上の台頭でしょう。『こんなのがおったんやな』とシーズンに入ってから慌てて研究したんでしょうけど、彼はその上を行くだけの力がありましたね」と江本氏は語る。
◆“大切に扱われた”才木
才木は16年ドラフト3位で阪神に入団し、1年目から3年目まで一軍で登板したものの、20年11月に右ひじの手術をして21年、22年は一軍での登板機会がなかった。それが23年になって活躍したのは、本人の懸命なリハビリもあったが、二軍監督だった平田がじっくりチェックしていたことが考えられる。
「才木は『ローテーションに入れば間違いなく活躍するだけの力がある』と言われながら、ここ数年はケガで泣かされてきました。そこから這い上がってくるプロセスを、当時の平田二軍監督が見続けていたからこそ、どんなに一軍で好投しても疲れで体がへばって投球フォームが狂う前に、二軍で調整させる時間を設けながらの登板をさせていたんだと思います」
◆セ・リーグの野球にハマった大竹
最後に大竹である。彼は球界初となる現役ドラフトによってソフトバンクから移籍してきたが、これも平田が二軍監督時代、大竹のピッチングを敵ながら観察していて、「セ・リーグに来たら面白い」と考えていたとしてもおかしくない。
パ・リーグはブンブン振り回す打者が多いのに比べ、セ・リーグは全体的にコンパクトに対応する打者が多い。つまり、駆け引きで勝負するセ・リーグのほうが、彼には向いていると見ていたからこそ、平田が進言し、岡田監督が指名したとしても不思議な話ではない。
「現役ドラフトで大竹の名前があったとき、岡田監督は迷わず大竹を指名したと聞きました。それだけに『セ・リーグに来たら活躍する』と確信めいたものがあったとしか思えません」(前出の江本氏)
◆3人がいなければBクラスだったかも?
もしこの3人がいなければ阪神はどうなっていたか。江本氏は、「AクラスとBクラスの間をさまよっていた、いやひょっとしたらBクラスだったかもしれないですね」と語る。それだけに二軍監督として阪神の若手選手、さらにライバルとなる対戦相手の選手を見続けていた当時の平田二軍監督が、岡田監督にとって、大切な存在だった。
「表立って岡田監督は話していませんが、彼は平田ヘッドに感謝していると思います。普通は軸になるローテーションの投手を育てるのに、多くてもせいぜい2人いれば御の字というところを、一挙に3人も出てきて大事に投げさせていた。
もともと阪神は中継ぎ以降の投手が盤石だったから、彼ら3人が疲れなどで力が落ちたと見るや、すぐさま二軍で調整させることができたのも大きかった。岡田監督は平田ヘッドに足を向けて寝られないでしょうね(笑)」
◆「12球団屈指の先発陣」で日本一を目指す
優勝が決まり、シーズン中不調だった青柳と西も戦列に戻ってきた。実績のある彼らに加えて、村上、才木、大竹らを加えたローテーションは、今や12球団屈指の先発陣となった。
この先の日本一を目指すには、CS、さらには日本シリーズを勝ち抜かなければならないが、江本氏は「私自身、『ペナントレースとCSは別物』という考え方はたしかにある。ただ、今年の阪神の力であれば、いい結果を残すと期待しています」と話す。
阪神が日本一になったのは、今から38年前の1985年。1ヵ月後に再び歓喜の輪のなかに岡田監督が胴上げされている姿が見られるのか、この先の阪神の戦い方に注目したい。
<TEXT/スポーツジャーナリスト 小山宣宏>
【小山宣宏】
スポーツジャーナリスト。高校野球やプロ野球を中心とした取材が多い。雑誌や書籍のほか、「文春オンライン」など多数のネットメディアでも執筆。著書に『コロナに翻弄された甲子園』(双葉社)
(出典 news.nicovideo.jp)
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